アクセス解析
カウンター

こんなことでいいのか!歴史学研究会


私は、漢文がぜんぜん読めない、全くのド素人です。しかし、邪馬台国関連の史実に関する学界の認識がいかにいい加減なものであるかを指摘せずにはおれません。

次に掲げるイラストは、中央公論社が創業100周年記念に出版を企画した、「日本の古代」(全15巻)の第1巻、森浩一編倭人の登場』(初版印刷昭和60年(1985)11月10日)に載っているものです。  監修 貝塚茂樹・江上波夫・司馬遼太郎、 編集 岸 俊男・森 浩一・大林太良

魏の明帝に謁見する倭使、難升米と都市牛利

同書には、杉本憲司・森博達の両氏が執筆した「『魏志』倭人伝を通読する」と題する章があり、景初2年6月 に関して次のような注をつけています。
景初は魏の明帝の年号であるが、ここの2年とあるのは、景初3年(239)の誤りと考えられている。『日本書紀』に引く『魏志』と『梁書』諸夷伝の倭の条では景初3年になっている。
したがって、上掲のイラストは、景初3年12月に、倭使、難升米と都市牛利が、魏の明帝に謁見する様子を表すために描かれたことになります。

昭和60年に出版された、森浩一編倭人の登場』にそんな間違いがあるとは考えられないと思われる方は、次の記事をどのようにご覧になるでしょうか。

西暦239 干支己未 (魏・景初3)6月、倭の女王卑弥呼、大夫の難升米らを帯方郡に派遣し、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守、劉夏は、難升米らを魏の都、洛陽へおくる(魏志倭人伝)。12月明帝は詔して、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を授ける。また難升米を率善中郎将、副使の牛利を率善校尉とし、銀印青綬を授ける。また卑弥呼に銅鏡100枚などを与える(魏志倭人伝)。
「景初三年」の紀年銘をもつ神獣鏡が、大阪府和泉市の黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。

これは、1993年(平成5)11月18日第1刷発行の歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店)の記事なのです。

これに反して、1967年(昭和42)に発行された『日本書紀 上』(岩波書店)の神功三十九年の条に登場する「明帝の景初の三年」に関する頭注には、次のようにあります。

明帝 魏第三代の天子。魏志(紹興版)には、引用箇所にこの二字がない。
    ただし明帝は二三九年正月に死んでいるので、六月は斉王芳即位の後。

景初の三年 二三九年。魏志に二年とするが、梁書にも三年とある。
         二年は戊午であって、太歳己未と矛盾するので、三年が良いか。

明帝の死亡記事は、『三国志』「魏書」明帝紀の景初3年の条に記されています。

私の手元にある世界古典文学全集 第24巻A(第9刷) 訳者 今鷹 真・井波律子『三国志T』(筑摩書房)の第1刷発行は、1977年(昭和52)7月30日ですが、明帝紀に記された真相が、日本の歴史学界に受け入れられるのは、一体いつになるのでしょうか。


なお、上記の1993年(平成5)11月18日第1刷発行の歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店)の「付録2 古代中国年号・王朝・皇帝対照表」には、

西暦 239  干支 己未  魏 斉王芳  景初3

とあります。権威ある岩波の「日本史年表」とその「付録2」において、このような食い違いが生じている原因は、一体どこにあるのでしょうか。


次 へ   目 次 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料


魏志倭人伝

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。


(神功)三十九年。是年(ことし)、太歳己 未(つちのとひつじ)魏志(ぎし)()はく、明帝(めいてい)景初(けいしょ)三年の六月。()     女王(ぢよわう) 大夫(たいふ)()(つかは)して、(こほり)(いた)りて、天子に(いた)らむことを(もと)めて朝献(てうけん)す。太守(たいしゅ)ケ夏、()(つかは)して()(おく)りて、京都(けいと)(いた)らしむ。

1967年(昭和42)年3月31日 第1刷発行 
日本古典文学大系67『日本史上』(岩波書店刊行)
 坂本太郎・家永三郎・井光貞・大野晋 校注

上記における、「明帝の景初の三年」「倭の女王」に関する頭注。
明帝   魏第三代の天子。魏志(紹興版)には、引用箇所にこの二字がない。
      ただし明帝は二三九年正月に死んでいるので、六月は斉王芳即位の後。

景初の三年   二三九年。魏志に二年とするが、梁書にも三年とある。
           二年は戊午であって、太歳己未と矛盾するので、三年が良いか。

倭の女王   卑弥呼


「明帝紀」景初3年

(景初)三年春正月丁亥の日(一日)、大尉の司馬宣王が[遼東から]帰還して河内に到達すると、明帝は早馬によって彼を召しよせ、寝室の中に引き入れて、その手をとり、

「私の病気はひじょうに重い。後の事は君にまかせる。
君はよって曹爽とともに
幼い息子を輔佐せよ。
私は君に会えたのだから、思いのこすことはない」

と告げた。宣王は頓首して涙を流した。

その日、明帝は嘉福殿において崩御した。時に三十六歳であった。

幼い息子とは、皇太子のこと。裴松之注の『魏氏春秋』によれば、このとき8歳)

(世界古典文学全集 第24巻A 訳者 今鷹 真・井波律子『三国志T』(筑摩書房)第1刷発行1977年(昭和52)7月30日)


日本書紀の欽明天皇崩御の記事

1965年(昭和40)年7月5日 第1刷発行 日本古典文学大系68『日本史 下』(岩波書店刊行) 坂本太郎・家永三郎・井光貞・大野晋 校注」の頭注によれば

日本書紀の欽明天皇崩御の記事は、「魏志」の景初3年正月条のの明帝崩御の記事を参考にして書かれたことになります。

該当箇所の口語訳を、「井上光貞監訳『日本書紀下』中央公論社」から引用しておきます。

夏4月の戊寅(つちのえとら)の朔壬辰(みずのえたつ:15日)に、天皇は病におかかりになった。

皇太子が外出して不在であったので、駅馬で召して寝室に招き入れ、その手をとって、詔して、

「自分の病は重い。後のことはおまえにゆだねる。新羅を討って任那を建てるのだ。そしてかつてのごとく、夫婦のように相和するならば、自分は死んでもなにも恨むことはない」

といわれた。

この月に、天皇は大殿にお崩(かく)れになった。時に御年は若干(そこばく)


目 次