アクセス解析
カウンター

東西南北と三角定規の斜辺 80707


大地に描かれた五芒星の秘密


箸墓後円部中心を通る東西線「太陽の道」   記紀神話に適う「日の出の道」

本居宣長之奥墓の秘密?   伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図

御来光の道と近畿の五芒星   神社とは何か   五芒星の発見者


箸墓後円部中心を通る東西線「太陽の道」

1980年の建国記念の日に、NHKは、水谷慶一氏が企画・構成した、『謎の北緯34度32分をゆく――知られざる古代』と題する特集番組を放映しています。

東西に二分した下の地図の赤い直線は、「太陽の道」と呼ばれるものです。この太陽の道は、NHKの特集番組で取り上げられ、日本のレイラインの先駆けとなった直線です。

『知られざる古代』の証言」と題して取り上げている水谷氏の著書は、NHKというバックがあるだけに、多くの人々や関連機関の協力もあり、非常に示唆に富んだものです。

しかし、箸墓を通る東西線上に三輪山があると見ることには、かなりの抵抗があり、箸墓を通る東西線上の天神山と春日宮天皇妃陵がカットされていることにも不満を感じます。

Googleマイマップの「箸墓から三輪山への回り道」を見れば、箸墓と三輪山を簡単に結び付けることによって、大切なものが見えなくなる恐れがあることが分かるはずです。


箸墓から三輪山への回り道

箸墓後円部中心
三輪山
343221.0,1355028.3
343206.1,1355200.5
101°03′
(
281°03′)
2.4(km)
X
気になる位置関係 北緯,東経 方位角(逆)/距離 特徴
箸墓後円部中心
→春日宮天皇妃陵
343221,1355028.3
3432
21,1355629.5
 89°58′

(270°02′)
9.2(km)

春日宮天皇妃陵
→聖武天皇陵
343221,1355629.5
344138.5,1354946.8
329°11
(149°07′)
20,009(m)
聖武天皇陵
→安積親王墓
344138.5,1354946.8
344750.2,1355357.1
29°03′
(209°05′)
13(km)
安積親王墓
→橘諸兄墓
344750.1,1355357.1
344750,1354907.5
 270°00′

(89°57′)
7.4(km)

橘諸兄墓
→天香久山
344750,1354907.5
342945,1354907
180°01′

(0°01′)
33(km)

天香久山
三輪山
342945,1354907
343206.1,1355200.5
45°30′
(225°31′)
6.2(km)

のみならず、「南北に長いニホンの地図」や「大神神社境内の標記について」などをご覧頂ければ分かるように、箸墓は東西線よりも、むしろ南北線を問題にすべきものなのです。

なお、具体的な数値のデータに関心がある方は、「太陽の道」「箸墓」をご覧下さい。


記紀神話に適う「日の出の道」

Yahoo!では、「太陽の道 で検索した結果  約114,000件」、Google では、「パーソナライズ検索: 太陽の道 の検索結果 約 18,100 」となりました(2008年7月20日)

したがって、検索すれば、「太陽の道」に関する情報は、かなり入手できます。

ところで、内田一成氏は、「LEYLINE HUNTING」の「浮かび上がる五芒星の謎」において、先の「御来光の道」に新たな図形を加えた、上図を紹介しています。

私は、この衝撃的な地図上の五芒星にこだわることによって、単純明快に作為を読み取ることが出来る、記紀神話に適う日の出の道を発見することができました。

「大辞林」の解説によれば、その日の出の道の要所を占める神社3社の主神は次の通りです。成る程、主役がこれだけ揃えば、文句なく記紀神話に適う、と納得して頂けるでしょうか。

いざなきのみこと 【伊弉諾尊・伊邪那岐命】伊弉諾神宮の主神)

後世は「いざなぎ」とも。記紀神話で国生みをした男神。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天の浮橋に立ち、天の瓊矛(ぬぼこ)で海水をかきまわして
馭慮(おのごろ)島をつくり、天降(あまくだ)って婚姻し国土と多くの神々を生んだ。

天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読尊(つくよみのみこと)素戔嗚尊(すさのおのみこと)の父。

あまてらすおおみかみ[―おほみかみ]  【天照大神・天照大御神】皇大神宮の主神)

記紀神話の神。女神。伊弉諾尊(いざなきのみこと)の子。太陽の神格化。皇室の祖神。

伊勢の皇大神宮主神としてまつられる。天照神(あまてるかみ)。大日(おおひるめのみこと)。大日(おおひるめのむち)

すさのおのみこと[すさのを―]  【素戔嗚尊・須佐之男命】須我神社の主神)

記紀神話で出雲系神統の祖とされる神。伊弉諾(いざなき)・伊弉冉(いざなみ)二尊の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)

粗野な性格から天の石屋戸の事件を起こしたため根の国に追放されたが、途中、出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得て天照大神に献じた。

新羅に渡って金・銀・木材を持ち帰り、また植林を伝えたともいわれる。「出雲国風土記」では温和な農耕神とされる。


次の「記紀神話に適う「日の出の道」」を示す地図は、ITエンジニア、コンサルタントの経験を活かし、地に足の着いたスピリチュアル・カウンセリングを特徴とするという、ふじた氏のサイトにあった、「御来光の道と近畿の五芒星」を拝借して、加工したものです。

季節の
節 目
  冬至 ―→
←―
春分
秋分
―→
←―
夏至  
祭 神 息子 素戔嗚尊 日の出の
方 向 ↓
伊弉諾尊 日の出の
方 向 ↓
天照大神 日の出の
方 向 ↓
 
対 象 須我神社 伊弉諾神宮 皇大神宮 富士山
特 徴 日本初宮
和歌発祥の地
方向
距離
194km
国生み神話の
主人公の幽宮
方向
距離
172km
最高神 方向
距離
209km
最高峰
逆方向
日の入り

夏至の日の入り
春分・秋分の日の入り

冬至の日の入り
参考

「日本初宮(にほんはつのみや)」とか「和歌発祥の地」などといわれる須我神社は、八岐大蛇を退治した須佐之男命が、稲田比売命と共に住む土地を探し出し、宮殿を建てて鎮まった処と伝えられています。

その須我神社から、地図上で、冬至の太陽が昇る方向に194km分進むと、素戔嗚尊の父の伊弉諾尊が幽宮(かくりのみや)を構えて鎮まった処という、伊弉諾神宮があります。

さらに、伊弉諾神宮から、地図上で、春分・秋分の太陽が昇る方向すなわち、真東に
172km分進むと、伊弉諾尊の娘である太陽神=天照大神を祭る皇大神宮があるのです。

のみならず、皇大神宮から、地図上で、夏至の太陽が昇る方向に209km分進むと、富士山頂に到達するのです。

なお、夏至の頃、二見浦の東端にある興玉(おきたま)神社の夫婦岩(めおといわ)の間から昇る朝日は、右の写真のように、富士山のために下方が欠けて見えます。

ここをクリックすると、サイズの大きい別の写真が見れます)


本居宣長之奥墓の秘密?

皇大神宮から富士山は見えませんが、条件がよければ、近くにある朝熊山頂からは、富士山を見ることができます。ただし、冬季の晴天の早朝以外はほとんど見えないとのことです。

ところで、本居宣長は、22歳の時に登った富士山での体験から、地が球であること(地球)を納得し、「地球の空中にあることは、日月の空に懸れると同じことなり」といっています。

のみならず、周辺諸国、異国情報を得るために、「地球一覧図」、「蝦夷(エゾ)図」などが机辺に置かれていたとのことです。

さらに、旅が好きだったこと。高所からの眺望を好んだこと。本居家の墓とは別個に、自分専用の奥墓を、視界がよければ富士山が見える山室山の頂き近くに作っていることが気になります。                                 ↑「山室の図」     

 本居宣長の墓碑の背後には一本の山桜が植えられているよ
 うに、彼が山桜をこよなく愛したことはよく知られています。

 しかし、今回、山室山の奥墓の周囲に、桜花を刻した石の玉垣をめぐらせているのを見て、母校の今治北高の校章からの連想に影響された私は、宣長が近畿の五芒星を知っていたのではないかという思いに駆られました。    

なぜなら、宣長が遺した「同じ文字なき四十七文字の歌」には、山上憶良の名が読み取れる暗号が仕組まれているからです。

それはともかく、伊能忠敬が作成した「沿海地図 上」の富士山(←クリック)を見ると、山頂から放射状に引かれた直線のうちの1本は、200km以上離れた夫婦岩または朝熊山頂に達している可能性を秘めています。

【追記】地図の風景 の第11話「忠敬つれづれ」に次のような記事がありました。)

「文化2年4月28日 …朝熊岳へ測量。…終日晴天濛気おおく遠山不見。」
 「同5月朔日 午後当所(鳥羽)日和山に登て山々を測る。濛気おおく遠山不見。」
 「同5月2日 日和山に遠山を測る。日の出前に富士山を測得たり。」

その後も日和山に出かける。4日は、富士山観測は不成功だが、白山と伊吹山を観測する。次いで、5日、7日と出かけるが、これも不成功。

文化2年5月12日、「石鏡村」(現三重県鳥羽市石鏡)、13日「相差村」(現三重県鳥羽市相差)、20日「国府村海岸」(現三重県志摩郡阿児町国府)でそれぞれ成功する。

それゆえ、古代にも、長距離間の位置関係を正確に把握する方法があったことになり、遠距離から確認できる富士山は、次図のような、三角測量を象徴していることになるはずです。

いずれにしろ、精度の高い地図またはそれに類するものがなければ、「記紀神話に適う」といえるように神社を配置した日の出の道を作成することは出来なかったはずです。

では、どのようにすれば、地図上に神社3社の位置を定めることができるか、その手順を下図で確かめておきましょう。

@ 夏至の太陽が富士山頂から昇る地点の範囲を求める。

A 淡路島から、真東の@の範囲内に神社設立に適した場所がある地点を探す。

B 淡路島から選んだ地点が、冬至の日の出の方向になるような適当な地点を探す。

ここで二つの疑問が生じます。

まず第一は、記紀神話が創作された時代に、神々の鎮まる神社の位置を定めるために役立つ精度の高い地図、またはそれに代わる何かがあっただろうか、ということです。

第二は、記紀神話に登場する神々の鎮まる神社の位置は、創作した記紀神話に合わせて、
ほぼ同時代に定められたのではないだろうか、ということです。


伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図

伊弉諾神宮には、「伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図」という、新しい石碑があります。

真東の皇大神宮の外に、一宮が4社も関係していることは非常に興味深いけれど、実際にそれぞれの神社の緯度・経度を求めて検討データしてみると、かなり問題がありました。

その様子が分かるように、Googleマイマップも作成してみました。

その結果、記紀神話との関わりから、対岸の洞窟(天岩戸)をご神体とする天岩戸神社
(西本宮)がクローズアップされてきました。

なぜなら、冬至の日の入りは、天照大神が天岩戸に隠れたことを連想させるからです。

このことから、天孫が降臨した高千穂は、天岩戸がない高千穂峰の方がよいという答えが得られ、地図に暗号が仕組まれていると想定することの意義が裏付けられました。

そこで、私の独断に基づき、下図のように、石碑「伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図」の写真を加工してみました。

対  象 北 緯,東 経 方位角(逆)/距離 備  考
皇大神宮
→富士山
342717.6,1364333.0
352146.4,1384353.2
60°38′
(241°47′)
209(km)
伊弉諾神宮
→皇大神宮
342736.8,1345109.0
342717.6,1364333.0
89°40′
(270°44′)
172(km)
伊弉諾神宮
天岩戸神社
342736.8,1345109.0
324404.1,1312101.5
240°29
(58°33′)
377(km)

季節の
節 目
  冬至   春分
秋分
  冬至  
祭 神 天照大神 日の入り
の方向↓
伊弉諾尊 日の入り
の方向↓
天照大神 日の入り
の方向↓
 
対 象 天岩戸神社東本宮 伊弉諾神宮 皇大神宮 富士山
特 徴 西本宮は天岩屋
いう洞窟神体
方向
距離
377km
国生み神話の
主人公の幽宮
方向
距離
172km
最高神 方向
距離
209km
最高峰
逆方向
日の出

夏至の日の出
春分・秋分の日の出

夏至の日の出
参考

【追記】 古東正舟氏より、小豆島八十八ヶ所霊場の第一番『洞雲山』が伊弉諾神宮の真西に位置していることを教わりました。

検索してみると、「明かり窓」に記したよう、四国新聞社のIKOKUEWSに、次のようにありました。実に不思議なことなので、ここにも追記して置きます。(2011年1月10日)

神々しく 小豆島で夏至観音くっきり 2008/06/15 09:54

夏至前後の約50日間、晴天の日だけに見られる神秘的な光の観音像「夏至観音」が
13日、香川県小豆郡小豆島町坂手の小豆島霊場一番札所・洞雲山の岩肌に出現した。
今夏一番のくっきりとした神々しい姿に大勢のお遍路さんらが手を合わせた。

 夏至観音は南西の光が境内の洞窟[どうくつ]に差し込む午後3時すぎ、光と影のコントラストで錫杖[しゃくじょう]を手に頭を右に少し傾けたような約3メートルの観音像が、足元から徐々に岩肌に浮かび上がる現象。

18年前にお遍路さんが偶然撮った写真の中にその姿を発見し、話題となった。


伊弉諾神宮の真西に位置する小豆島八十八ヶ所霊場の第一番『洞雲山
対  象 北 緯,東 経 方位角(逆)/距離

方 向

伊弉諾神宮
洞雲山(札所)
342736.8,1345109.0
342732.2,1341953.3
269°58
(89°41′)
47.9(km)

緯度の差5秒

御来光の道と近畿の五芒星

先に見た地図上の五芒星の紹介者=内田一成氏は、高校時代より登山、オフロードバイクに親しみ、現在はプロとして、その趣味を活かした企画や執筆活動をされている方です。

内田氏のレイラインの捉え方は、感覚的で、学術的とはいえません。けれども、五芒星に関する次のような指摘を検討した私は、それが事実であることを知って、脱帽しました。

浮かび上がる五芒星の謎 (参照:Googleマイマップ「御来光の道と五芒星 」)

近畿地方の相互に関連する聖星。五角形の一辺110kmでそれに内接する五芒星の一辺は180km。……

 いったい、誰がこんな「設計図」を引いたのか?

1辺約110km(誤差±3kmの五角形の存在を発見したのは誰なのか。内田氏はその点について触れていませんが、これは氏が追い求めるレイラインとは異質のもののようです。

内田氏の指摘を検討(データ)した私も、偶然ではありえない見事な位置関係を目の前にすると、いったい、誰がこんな設計図を引いたのか?」と、考え込まずには居れませんでした。

日本書紀によると、垂仁25年(BC5年)3月10日に天照大神のための祠が伊勢国に建てられているので、内田氏は、三重の「伊勢」と丹後「元伊勢」を結ぶラインは、すでに2000年前に完成していたと見ています。

しかし、五芒星は、現在も晴明神社の神紋などに使われているので、「口遊」の著者源為憲と同時代に活躍した陰陽師安倍晴明について見ておく必要がありそうです。

安倍 晴明(あべの せいめい/はるあきら/はれあき、延喜21年(921年)? - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の最も有名な陰陽師の一人であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。

当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートであり、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師で、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。

右の清明神社の清明井の写真は、Freshwater Goby Museumから拝借しました。

千利休が茶の湯に使ったとの言い伝えがあるこの井戸は、立春になると神職が上部を回転させ、取水口がその年々の恵方を指す仕組みになっているのだそうです。

GoogleやYahoo!で検索して間に合わせていた私が、今回は、久し振りに図書館に出向き、数冊の本を借りてきました。

その中の1冊に、『陰陽師』の原作者夢枕獏氏と、それを漫画化している岡野玲子氏との間に交わされた、次のようなやり取りが載っていました。

夢枕 一度「これは何なの?」って、聞かれてコンパスの話なんかしましたね。

岡野 あの時は安倍晴明を描いてて、安倍晴明というとみんなだいたい五芒星(ごぼうせい)を思い浮かべるじゃないですか。

私は絵描きなので、彼は本当に五角形とか正五芒星が描けたのかっていう疑問を持ったんです。

夢枕 それは面白いね。

岡野 すごく難しいんですよね、正五角形を作るのって。一体どうやって作ったんだろうって、アシスタントの人たちもみんなで考えたんです。

(めどき)っていう占筮(せんぜい)の時に使う筮竹(ぜいちく)があるんですが、あれを五本持ってきて繋いだんじゃないかとかね。一本が同じ長さですから。

そうやっていろいろ考えたんですけれども、どうもコンパスがなきゃ出来きいんじゃないかって思ったんです。

神聖幾何学図形の描き方を調べたら、コンパスが1本あれば円から合成できるんですよ。でもあの時代にコンパスがなかったらアウトじゃないですか。それで獏さんに電話したんです。

.夢枕 僕が岡野さんに初めて教えたやつですね、それは。

岡野 「コンパスなんてありましたかね?」って電話をしましたら――

夢枕 そうしたら、中国の古い文献で伏羲(ふつぎ)と女(じよか)がコンパスと定規持ってる図があったんですね。その話をしたんですが、初めて俺はいばれたね、あの時に。

岡野 まさかの時の原作者とか言って。

小松 陰陽道というのは星を観測したり、暦を作ったり、方位を測定したりしますから、基礎的な測定の方法は知ってないと、星の位置とか全部わかんないわけですからね。

正五角形は、紙の上でもコンパスがなければ描けないというのに、

地図上の神社の位置関係が正五角形に近いものになっていることは、驚きというほかありません。

なぜなら、地図上でいえば、右図のように、富士山頂から方位角240度に引いた直線と、伊吹山頂から方位角162度に引いた直線の交点として、皇大神宮のあるべき位置が指定されます。

すると、その瞬間に、伊吹山と皇大神宮とを隣り合う2頂点とする正五角形の、残る3頂点として、熊野本宮・伊弉諾神宮・元伊勢のあるべき位置も、同時に決まってしまうからです。

このようにあるべき位置を事前に指定された4社が、次表のような形で存在するのです。

地図上の五角形と正五角形の比較

対  象 北 緯,東 経 方位角(逆)/距離 理想の正五角形
伊吹山→
元伊勢
352504.2,1362422.7
3525
48.5,1350916.1
271°03′
(90°20′)
114km
270度
(90度)
111km
元伊勢→
伊弉諾神宮
352548.5,1350916.1
342736.8,1345109.0
194°29′
(14°18′)
111km
198度
(18度)
111km
伊弉諾神宮
→熊野本宮
342736.8,1345109.0
335025.7,1354624.1
128°44′
(309°15′)
109km
126度
(306度)
111km
熊野本宮
→伊勢内宮
335025.7,1354624.1
342717.6,1364333.0
51°56′
(232°28′)
112km
54度
(234度)
111km
伊勢内宮
→伊吹山
342717.6,1364333.0
352504.2,1362422.7
344°48′
(164°37′)
111km
342度
162度
111km

近畿の五芒星の頂点を結んでできる五角形の内角の大きさ
頂点 伊吹山 頂点 元伊勢 頂点 伊弉諾神宮 頂点 熊野本宮 頂点 伊勢内宮

正五角形の内角の大きさ 108°との差

106°26′−108°
=−1°34′
104°09′−108°
=−3°51′
114°26′−108°
=+6°26′
102°41′−108°
=−5°19′
112°20′−108°
=+4°20′

角度の誤差はやや大きいようですが、距離の誤差は、111kmに対して、3km以内です。

これを可能にしたのは、精度の高い地図と同時に、素晴らしい洞察力とスケールの大きい構想力の持主が存在したからだと考えざるを得ないのではないでしょうか。

私は、そのような人物として、これまで『口遊』の著者源為憲?〜1011)を想定していましたが、今回、陰陽師の安部晴朗(921〜1005)を追加する必要を感じている次第です。

つまり、私は、11世紀の初めに、源氏物語のような、時代を超越した作品が生まれたのは、10世紀後半にその素地となる国風文化の著しい発展があったからだと考えたいのです。

神社にしても、推古天皇の時代に日本の国教となった仏教の寺院に対抗して、10世紀後半に、日本の伝統に従った建築様式の殿舎に神が祀られるよにになったと考えたいのです。

私が、国学院大学学長 上田 賢治氏の「神社とは何か」を引用しているのも、伊勢神宮が今の位置に定まった時代を、10世紀後半とする可能性を探るためです。

たとえば、日本書紀によると、初代神武天皇は、紀元前585年に没し、翌年に畝傍山東北陵に葬られたとありますが、天皇を祭る橿原神宮は、明治時代に創建されたものです。

伊勢神宮にしても、20年ごとの式年遷宮で、原形どおりに新しく造り替える建物の古さからは、千数百年の歴史を有する神社であることを証明することはできません。

したがって、戦時中の歴史教科書がそうであったように、記紀が意図的に歴史の真相を伝えてないならば、伊勢神宮の創建の時代が10世紀後半であってもおかしくありません。

いずれにしろ、今日の我々が地図によって知ることのできる特異な位置関係を設計するためには、今日と同様の精度の地図の存在を必要とするはずです。

地図の存在に関する答えは、日本書紀の記事と金田章裕著「古地図からみた古代日本」(中公新書)を参考にすれば、出せるのではないかと感じています。

もし、精度の高い地図の存在を論証できるならば、今回発見した、「記紀神話に適う日の出・日の入りの道」や、近畿の五芒星は、その論証のゆるぎない物的証拠となるはずです。


神社とは何か   目 次   日本のレイラインの実態   日本のレイラインの実態2データ